先日、笠岡市の「瀬戸の古猫庫」さんを伺った際、ひらめきました。
小田太四郎の郷里は岡山のどこだっけ?
小田太四郎は、大正10年頃から昭和25年頃まで神戸人形を制作され、その作品は昭和天皇に献上もされ、海外でもたくさんコレクションされている、名作家なのです。
本来、小田太四郎先生とお呼びしたい気持ちなのですが、歴史的な作家ということで、ここではあえて敬称略とさせていただきます。
手元のタブレットにいつも神戸人形の資料があるので確認したところ、岡山懸後月郡足次村というところであるとわかりました。
後月郡は今の井原市であると。笠岡のすぐ北側!
明治時代の住所なので、井原市の芳井支所で聞いてみることにしました。
後月郡足次村は、「しづきぐんあすわむら」と読むそうです。難読地名の連続です。
市町村の合併などで多少名前が変わっているとは言え、なんと明治時代と地番は同じ。
訪ねた先は農村の一角でした。この車はうちの車ですが、この車の前には小田太四郎の生家とおぼしき場所が。
今はどんな方がお住まいなのでしょう。思い切って引き戸をノックしたところ、女性の方が出てこられました。
突然見知らぬ人が訪ねてきて、「神戸人形」とか「明治時代の…」などと話し出したので、さぞや驚かれたと思います。その方はとても親切にご対応くださいました。
「小田太四郎という人のことは知りませんが、何かわかったらお知らせします。」と連絡先を交換していただきました。
その後私たちは笠岡に戻りカブトガニ博物館を見たり、
カブトガニせんべいなんかを買ったりして家路につきましたが…
携帯に着信が。
早速ご一族の方からご連絡をいただいたのです。
やはり、井原市芳井の小田さんは小田太四郎のご一族の方だったのです。
その後ご一族の方にお話を伺う機会が持て、小田太四郎は芳井の家を出て、梶江というところに家屋と工場を構えていたと言うことを教えていただきました。
芳井を出て、梶江に住まい、その後神戸に出たのか、戦中神戸から戻ってから梶江に住まいされたのかなど細かいところまではわかりませんでしたが、今まで昔話のようだった小田太四郎がふらりと目の前に通りかかったような、そんな不思議な気持ちになりました。
小田太四郎は神戸人形の名作を数多く残しました。作品は永遠の生命を伝えます。その生命が私たちを励ましてくれ、新しい神戸人形を作らせてくれているように思えてならないのです。
井原市芳井の小田太四郎先生ご一族の皆様、ありがとうございました。
(吉田太郎)
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